※この記事には3月のライオン、二巻までの重大なネタバレが含まれます
人間が書けている、書けていない。小説や漫画に対する評価で良く聞かれる表現ですね。


しかし、実際問題、一冊の本や漫画で一人の人間を表現することは可能でしょうか?出版される書籍としては、小説なら一冊数十万字、漫画なら200ページほどですね。デジタルにすればたかだか数メガバイト程度の情報量に過ぎません。世界中の言葉を集めても、たかだか数千億語程度しかないでしょう。それら全て使えば、果たして人間という存在を正確に表現することは可能なんでしょうか?
否、それは不可能だと僕は考えます。では、人間が書けているというのは一体どういうことか。

キャラクターの表現というのは、所詮突き詰めてしまえば記号です。この人は怒りっぽい、この人は優しい、この人は外向的、または内向的。創作の中では、キャラクターに『特性』という記号を与えて、それらを重ね合わせることで人間という物を近似するのです。あたかも三角関数の重ね合わせの重ね合わせで関数を表現するかのように。

そしてそれが上手く書けていると思っているのが羽海野チカの作品です。ここでは3月のライオンに的を絞ります。

羽海野作品は緻密です。理詰めで書かれているようにしか見えないのにあれらの作品を理詰めで書くのは相当に大変だろうと思います。
そう思うのは何故か?
3月のライオンのキャラクターの特性において重要な要素となっているのが対比。要素の持つ明と暗の部分を別々のキャラに担わせることによって、物語の世界を構築しています。
具体例を挙げましょう。
まずは、あかり家の三姉妹と幸田家(零の引き取られた家)の三姉弟。同じ三兄弟であるにもかかわらず、内情はまさに明と暗。兄弟が仲良く暮らす三姉妹と、崩壊してしまった三姉弟

次に、三姉妹と零の対比。双方共に両親を失ってしまった物同士の現状の違い。ももと零の妹は生者と死者の対比です。ひなたと零の対比。死んでしまった家族のために泣くひなたと、泣かない零。

そして、香子とあかり。両方とも零にとって姉としてのポジションに存在します。立場は同じだとしても、言葉で零を追いつめる香子と、何も言わずに受け入れるあかりはやはり対比されていると考えられます。

プロ棋士同士の対比。零と二階堂は、肉体と魂、それぞれの対比であると考えられるでしょう。肉体的な面では、とても健康とは言えない二階堂ですが、彼は初対面の三姉妹ともうち解けられる明るい性格をしています。それに対する零。

さらにキャラ部分以外にも客観的な視点と主観的な視点の対比が見られます。これはオリジナルではないのでここなどを参照して下さい。非常に良くまとめられた記事なので一見の価値ありです。

さて、ここまであげた数々の対比。それらがそれぞれのキャラクター同士で重なり合い、3月のライオンという世界を構築しています。恐るべき破羽海野チカ。一人一人のキャラクターに様々な特性を持たせつつもややこしくなりすぎずに、物語としても面白くなるようにお話を進める。これが理詰めで書かれてるようにしか思えないのに理詰めで書くのは非常に大変だと僕が思う、その理由です。
人間の表現と、お話のおもしろさ、双方のバランスを取れる作者はやはり傑物だというところで記事を閉じましょう。
拝読に感謝。