HEART BREAK!!!!

会話なんて簡単だ。コンバイルもないし、エラーも出ない。ましてやそれが顔も知らない文字だけでのやりとりともなれば。


近頃の僕はと言えばウェブ上に数多あるのチャットルームのうちの一つに入り浸っている。本来そこはマイナーなミステリー作家のファンサイトから派生したものだったのだが、僕がそこを発見した時にはもう本来の趣旨から外れてただの雑談用のチャットルームと化していた。実のところそういう独自の文化が発達してしまったチャットルームってのはガラパゴス諸島の生態系みたいなもので、初期から参加していない部外者が溶け込むってのはなかなかに困難だったりする。実際僕も参加した当初はなじめなくてかなり苦労した。今となっては結構懐かしい思い出だ。しかし、慣れてしまえばそこはなかなかに快適な場所だった。特にサボりがちな大学生としてお金はなくとも時間だけは持て余している僕のような人間にとっては。

そのチャットルームには僕を入れて4人程のメンバーが常駐していた。男性が3人に1人の女性。学生が2人に社会人が1人に無職が1人。といってもまあネット上の身分証明なんて、クレタ人の発言程に当てにならないものだから、それが真実だなんて保証はない。肩書きなんか関係なしに発する発言だけが肩書きになるのがウェブというものの魅力なんだ。しったかぶった事を言うようだけどさ。

今日は金曜日。大学の研究室から午後8時に帰宅した僕は早速パソコンをつけると、件のチャットルームへとログインした。すでに先人が2人いて雑談を交わしている。ログをざっと目で追ってから早速僕はキーボードに向かって文字を打ち込む。
k-anji:ただいま〜
返答を確認せずにすぐさまキッチンへと向かう。インスタントコーヒーを入れるためだ。粉と水をカップに注いでレンジで30秒。豆からちゃんと入れなければ珈琲じゃないと信仰しているような人が見たら卒倒するか説教されるような方法だけど、僕にとってはこれが毎日の習慣となってしまっている。
パソコンの前に戻って(余談だがパソコンとキッチンの間には僅か二歩の距離しかない。頑張れば一歩で行けない事も無い)部屋を覗くとそこには2人分の帰宅を労う文字が流れていた。
poporo_:おかえりー
nyankoromoti3sei:おかー
2人に向かって『さんきゅう。ただいま』という返答を返す。そこからはまたくだらない雑談。今日の話題はもっぱら先日起こった誘拐事件の事だった。
2日前、都内に住む富裕な家庭の中学2年生の1人娘が何者かによって誘拐された。娘の帰りの遅いのを心配した両親が警察に連絡するのとほぼ同時に犯人からの電話があり、それが誘拐事件だという事が発覚した。要求内容は不明。女の子はまだ解放されておらず、当然の事ながら犯人はいまだ捕まってはいない。
Q:元来秘密裏に捜査されるはずの誘拐事件の詳細について僕がこれほど知っているのは何故か?
Answer:誘拐事件を起こした犯人達自身がそれらの情報を某マスメディアに向かって送りつけたから。
誘拐事件の犯人と言えば『警察に知らせたら命は無いぞ』という有名な脅し文句があるぐらいで、秘密裏に事を行おうとするのが普通だから、わざわざ自分達の犯行を宣伝するような行動を取った犯人の動機などについて、目下大きな議論を呼んでいる。インターネット上でも、ここ数日ずっとこの事件が大きなトピックとなっており、2チャンネルなんかではいくつものスレッドが立てられて騒がれている。
曰く、被害者の自作自演である。
曰く、女の子はもう殺されていて、犯人は右往左往する世間を楽しんでいるだけである。
曰く、先日発覚した大物政治家の献金にまつわる不正から目をそらすための陰謀である。
考えられる限りのありとあらゆる可能性。それがネットの海に反乱している。「人間に考えつく全ての事は実際に起こりうる事である」と大言を吐いた老人がいたけれど、彼がこの騒ぎを見たら一体どんな事を考えるのだろうか。
チャットルームもその話題で持ち切りだった。
nyankoromoti3sei:こんなの見つけた 俺たちで事件解決してヒーロになろうず http://×××
poporo_:どうせまた2ちゃんねらーが勝手に騒いでるだけでしょ
nyankoromoti3sei:まあそうなんだけどさ
k-anji:暗いニュースばっかりだねえ

中略

午後9時をまわりみんなその話題には飽きてきたのか部屋に流れる発言が減り始める。僕はこれ幸いにと夕食の準備を始めるためにキッチンへと向った。夕食には野菜炒めを作ろうと思って帰り際によったスーパーで材料を買ってきている。まな板の上で包丁をリズミカルに動かす。炒め物の基本は火の通りが悪いものから先に炒める事。人参と豚肉をフライパンに投入してから、隙を見計らってパソコンの前に行きチャットルームの様子を眺める。チャットの画面はさっき僕がそこを離れたときのまま変化はなかった。だれの発言も流れてきてはいない。仕方がないので僕ば調理の方へと集中する事にした。フライパンにキャベツをイン!!

夕食を食べ終わった後はだらだらと読書。時刻は10時13分。チャットでは散発的な話題が幾つか流れたがそのどれもが盛り上がるというほどには至っていなかった。
o_sa_ke:ばんわーつかれたー
我が部屋唯一の社会人、最後のメンバーの登場である。チャットルームはにわかに活気をました。夜はまだこれからだ。

時刻は午前2時。あれから雑談を続けてしまい気づけばもうこんな時間だ。そろそろ寝なければなということを思い出す。明日は朝からゼミがあるので珍しく早起きをしなければならない。正直に言ってめんどくさい。風邪を引いたことにしまってサボってしまうという手を思いついたが、よく考えたらそれは先週使ったばっかりだった。未だにチャットでは活発なおしゃべりが行われている。夜も遅いのに元気な事だと思うが、自分もその一員であることを思えばもう苦笑するしかない。望んでミイラになりたがるミイラ取りなんて救いようが無い。
しかしそろそろ本当にまずい。寝ようと思ってその旨を打ち込もうかと思った時にタッチの差で先に文字が表示される。僕の目がそれを追う。

o_sa_ke:なんかこんなのみつけたんだけど。 http://×××
そう言って彼は1枚の画像ファイルへとつながるURLを提示した。何の疑問も持たずに僕はそれをクリックする。ブラウザが立ち上がり、モニターには小さな画像が表示される。
なんの変哲もない街角の風景。赤い屋根の家屋と、遠くに見える塔ぐらいしか特徴が無い。携帯電話についているカメラで撮ったのだろうかか?粒子がかなり粗い。『これはなに?』と尋ねようとした瞬間に頭になにかがよぎる。一瞬の違和感。しかし捉えようとした瞬間にするりと逃げ出してしまう。捉え損ねた。もう捕まえられない。少しばかり後ろ髪を引かれる思いはしたが、振り払ってチャットルームへと。『なにこれ?』『???』『なんだなんだ』疑問を示すクエッションマークが画面に溢れる。
刹那、先ほどよりも強い違和感。デジャブ。
k-anji:ちょっと待って ーキーボードを叩きながら思考を回転させるー 俺この風景を知ってる。いや、知ってるかもしれない。知ってる気がする。
o_sa_ke:嘘まじで!?
poporo_:どこなの?
nyankoromoti3sei:ほんとなら通報した方がいいんじゃないの?
k-anji:ちょっと待って。待ってってば
ちょっと待って、待ってってば。自分に言い聞かせるためにも声に出してそう呟く。待て。待て。取りあえずは落ち着け。まずはそう、深呼吸だ。そう言い聞かせて深呼吸とコーヒーを一口。デジャブ。既視感。いつかどこかで見たはずの光景。きっとどこかで見たはずの光景。だけど…………どこだ?一体僕はどこでこの光景を見たんだ。分からない。思い出せない。
k-anji:分からない。絶対この場所は見た事あるはずなのにどこなのかが思い出せない。
整理も何も出来ないまま書き込む。
o_sa_ke:住んでる場所の近くとか
nyankoromoti3sei:実家は?確か下宿だったよね
poporo_:旅行で行ったとことか
o_sa_ke:写真で見ただけって可能性は?
様々な可能性が提示されるがそのどれもがピンとこない。
k-anji:だめだ。思い出せない。
nyankoromoti3sei:可能性のあるとこをあげていってみてよ

そう言われて僕は少し戸惑う。実際に住んでいるとこをを本当に教えるべきか。ネットで個人情報を出す事に不安を感じる。だけど迷っている場合でもない。僕は住所や旅行した覚えのある場所、思いつく限りのそれらを出来るだけ正確に教える。
nyankoromoti3sei:分かった。無駄かもしれないけどgooglemapとかで調べてみる
poporo_:じゃあ私も
o_sa_ke:しゃーないやるか

1時間、2時間。時間だけが刻々と経っていく。時計の針はこんな時だけ容赦がない。もう駄目かもしれないと思う。そもそもが干し草の中から一本の針を探すような行為なんだから。それでも誰も止めようとは……言い出さない。
僕が止めるわけにはいかない。手がかりは僕の頭の中にしかないんだ。鈍重な海馬が憎い。何か手がかりがないかと思いチャットのログを探る。そして唐突に閃光。そうだこれだ。分かった。


k-anji:分かった。静岡県静岡市駿河区近辺
把握。分かった。などの返答を見ながら僕は正直頭を抱えそうになる。しかし今はそんな事をしている場合じゃない。急いでgooglemapを立ち上げてそれらしい場所を探しはじめる。
20分がたつ。
poporo_:見つけた。これじゃない? http://×××
URLをクリックすると確かにそれらしい。映っている角度は違うが特徴的な塔と赤い屋根の家屋が確認出来る。チャットメンバーの意見も一致した。
「よし」と一声を発して気合いを入れると携帯電話を取り上げた。警察へと連絡するために。

連絡はした。メールも送ったし、電話もした。電話口の警官は初め気乗りがしない様子だったが、話を続けるうちに熱心に取り合ってくれるようになった。僕たちに出来る事はもはやない。もしも出来る事があるとしたら、それは祈る事だけだ。何より体が限界に来ていた。時刻は既に午前5時。チャットメンバーも緊張の糸が切れたのか次々に落ちていく。僕も……もう限界。バタリ。

翌日。
少し疲れた様子だがしっかりとした足取りで車に乗り込む少女の姿が繰り返しテレビ画面に映し出されている。事件は解決。人質は無事解放された。犯人達(三人組だった)は無事逮捕。誘拐事件の結末としてはこれ以上無い程の解決だった。
犯人達が潜伏していた場所は東京都。そう僕たちが必死で調べたあの画像はなんの関係もない画像だった。ネット上でよくある悪戯の一つ、僕たちはまんまと踊らされただけだった。
o_sa_ke:いやーだまされたねー
poporo_:元はと言えば酒があんな画像拾ってくるからw
nyankoromoti3sei:そうそうw
o_sa_ke:ほんともうしわけない
k-anji:そもそも酒飲めないくせになんでハンドルがsakeなんだよ
o_sa_ke:今それ言うかなw
o_sa_ke:それにしてもなんで静岡の画像なんてしってたの?kanji確か和歌山なのに
うっ。画面の前で僕は沈黙する。やっぱり聞かれてしまった。そりゃそうだ。どうしよう。正直に言うべきか否か。ええい、後の事なんて知ったこっちゃない。もういいや。
k-anji:実は……
poporo_:実は?
o_sa_ke:wkwk
nyankoromoti3sei:kwkw
k-anji:前にpoporoさんが静岡に住んでるって言ってたじゃない?
k-anji:それで前にしらべたことがあって
poporo_:えっ?そんな事言ったっけ
o_sa_ke:ログってみる
o_sa_ke:On 08/12/19, at 2:45, poporo wrote:>静岡の○○町ってとこー
nyankoromoti3sei:おーほんとだ
poporo_:あらほんとに言ってたんだ……
poporo_:というかそれ嘘……
o_sa_ke:えっ
nyankoromoti3sei:えっ
k-anji:えzつ
poporo_:ごめんなさい。自分でもなんでそんな嘘ついたのか思い出せない
呆然そして、僕は笑った。多分3日ぶりくらいに大声を出して笑った。何がおかしいのかも分からないけれど。ただ笑った。

3ヶ月後。時刻は午前5時。正直に言って眠い。これから僕は静岡県に向かう。
あの出来事があって、盛り上がってしまったチャットメンバー達との今日は初めてのオフ会だ。折角だからということで、何故か場所は静岡県に決まった。みんなで件の場所を見に行こうということだ。
2年近くも文字だけで会話をしていたメンバーでも実際に会うとなると結構緊張するものだ。あれから色々な事があった。poporo_が実は男性だと告白したり、ひょんなことからnyankoromoti3seiが女性だと発覚したり。それを聞いて、驚くというよりもむしろ僕は笑ってしまった。色々分かったつもりになっていても、文字だけだと案外分からないものだ。誰も皆案外秘密を抱えている。
それでも相変わらず僕らは下らない話をチャットで話している。たまに不愉快になり、結構よく笑う。
こんな関係もきっといつかは終わるだろう。だけど出来るだけ長く続けばいいなと思いながら僕は扉をあけて外に出た。
空気は冷たく爽やかな朝がそこにはある。