無題

世界は一面砂に覆われている。日が射す公園で見るものよりも砂の色がひどく濃い。見渡す限りの灰色の砂。広大で寂寞とした砂漠の片隅、私はそこにいる。
これは夢、私はそれを思い出す。
私の目の前には一人の老人が座っている。老人は剃髪で少しくすんだ赤い衣を纏っている。私の眼に彼は密教の僧侶のように映った。彼の衣の朱、寂寞と広がる灰色の砂。この世界にはその対比だけが存在する。砂の上に腰を下ろす彼の前には大小さまざまな容器が置かれている。ガラスで作られた大きなグラスのような物、木で出来た升のような物、金属を加工して作られた円筒形の入れ物、大きな物でも10cmぐらい、小さな物になると小指の先ほどの大きさしか無くほとんど砂に埋もれてしまっているものもある。そして、そのどれもが砂にまみれて灰色にくすんでしまっている。否、砂のせいばかりでは無いのだろう。かつては鮮やかな原色をしていたであろうコップの一つは長い長い時の流れを惹起させるかのように色が禿げ縁が欠けてしまっている。それらに共通するのは過去の残滓、悠久の彼方を僅かに、ほんの僅かにだけ連想させる鮮やかさの欠片。
僧侶のような格好をした老人はしわくちゃの両手を地面に差し入れて、手のひら一杯に砂をすくい上げる。砂にまみれ灰色になった彼の手。丁寧にすくいあげたその砂を一粒一粒丁寧に容器の中に入れていく。さらさらさらさらと。そうして容器が一杯になると彼はそれを自らの傍らに大事そうに置くのだった。まるで古代の聖人が残した大切な遺物を扱うかのように、そっと。
これは夢。私はそれを知っている。
彼は少しの休憩を挟む事も無くただ黙々と砂をつめている。私はただただそれを見詰めている。彼から1mと離れていないその場所で。ちょっと手を伸ばせば彼に届きそうなその場所で。彼はそんな私に頓着する素振りを見せる事は無い。私に気がついているのか、私の存在が彼に見えているのかどうかすら分からない。ただ一つ分かる事、それは彼と私との遠さ。それはあまりにも遠く、ただ遠い。ひょっとすると悠久の時間すらがそれを埋められない程に。
これは夢。私はそれを意識する。
人は何かを思い知るために生きているのだろう。ただひたすらに砂をつめる僧侶の姿に多分私は打ちのめされていた。人生の途中で、何度か行き会った感情。こんな時にはいつでも、その感情の暗く苦い味が舌一杯に広がる。けれども私は心のどこかできっとそれを待ち望んでいる。誰にも見られないように、そっと舌なめずりをしながら。そういった時々の感情を積み重ねることでしか生き残れないものもきっと存在する。だけど時々それはとても寂しいことだ。
地平線の彼方、太陽が昇りはじめる。そうかこの世界は夜だったのだ。遅まきながらそんな事に気づく。思考にはいつだってタイムラグがある。遅い。遅い。ああ夢が覚める。そうして私はまた回帰するのだ。私が生きている世界、私が生きていくしかない世界へと。
朝日が射し老僧侶の姿が暗黒のシルエットへと消え去る頃、彼ははじめて砂をつめる手を止めた。彼は当然のように顔を上げる。皺だらけの顔、全てを見透かす賢明な瞳。彼が私の方を見る。彼と目が合う。老人の瞳の重圧に負けそうになり、私はそっと眼を逸らす。その刹那、私は確かに見たのだ。彼がそっと私に向かって微笑みかけるのを。