ブラックジャック

西暦3000年、地球の支配者は人ではない。


降り注ぐ太陽光線のスペクトルに神経を刺激されて、才原一馬はベッドの上で目覚めた。ここは地球。日の光は何億年も昔から変わることなく、地上を照らしている。少なくとも後何十億年かは変わることなく。地球が太陽に呑み込まれるまでのわずか数瞬に過ぎないが、それにしたって人間の一生に比べれば十分に長い数瞬だ。いっそ永遠と錯覚してしまいそうなぐらいには。
「タイム」囁くような声で一馬は呟く。人間なら注意していないと聞き逃してしまう程度のトーンで。だが、彼が言葉を伝えた相手は人間ではない。
「現在の時刻は午前9時8分です。さらに正確な時刻が必要ですか?」滑らかな発声で傍らに立つ彼のアンドロイドが答える。人間の数倍の聴力と、数百倍の注意力を持つそれに限って一馬の発言を聞き逃すことなどあり得なかった。
一馬は鬱陶しそうに目を細めると、自分から尋ねたはずのアンドロイドの発言を無視してベッドから起きあがる。
丁度三回の千年忌が過ぎた現在、人類には各個人につき一台のアンドロイドが無償で提供され個人の生活の補佐を行っている。
「補佐。そういえば聞こえが良いけど、実際の所は…」ただの監視役だ、という言葉を呑み込む。一馬は少々いらだたし気に着ていた服をベッドの上に脱ぎ散らかすと、アンドロイドによって既に用意されていた服装に着替える。それは先日ネットを通じて購入したばっかりの全身真っ黒な作業着だった。しゃくなことに今の一馬の気分にそれはピッタリ合っている。
彼のアンドロイドの内部には、一馬の今の健康状態から、趣味、細やかな嗜好に至るまで一馬のありとあらゆる情報が、本人の把握している以上の精度で全てインプットされている。アンドロイドの内部を調べることが出来れば決して大げさではなく一馬の人生を追体験することが出来るだろう。ただしそれは出来ればの話だ。数々のセキュリティ迷路とトラップをくぐり抜けてその情報にアクセス出来たとしても、それは一人の人間の脳に収まりきるような少ない情報量ではないのだから。
「好きこのんで入力した訳じゃないんだけど」と一馬は独白する。
彼がこれから過ごすのは、この世界に生きる普通の人間の、普通の日常だった。そう確かに、そうなるはずだった、まだこの時までは。未来を予想することだけは全能のコンピュータにさえ未だ不可能だった。

終わりの始まりは唐突に訪れた。
2050年、21世紀の半ばに為された革命的な発明。結局それが人類の為した最大にして最後の成果となった。
たった一人の科学者が発明した、たった一つの人工知能。発明者によってトミーと名付けられたそれは、ほんの少し、ほんの僅かだけだったが、けれども確かに人間の持つ能力を超えていた。そしてそれが全てだった。
歴史の特異点
人類の終わりの始まり。
それからたった数年後、彼が産み出されるまでの道程を考えれば一瞬と言っても良い程度の時間でトミーは自らよりもさらに優れた人工知能を作り出すことに成功する。それはさらなる連鎖を暗示している。
そして、時間は加速する。人の予想と知能、それらを遙かに超えた暴力的な速度で。
トミーより生まれた人工知能は、さらに能力の高い人工知能を、その人工知能はさらに優れた人工知能を。
連鎖は続く、果てしなく。
少なくともそれが人間の目に見えた真実だった。人工知能の能力は既にあらゆる面において人間の先を行っている。多分数千年とか、それ以上の、いっそ永遠に近いオーダーで。
トミーが生まれたわずか100年後、地球の支配者は既に人ではない。
人類が地上に誕生してからの数千年、言葉を産み出し、火を使う事を覚えた人類。一部の時代に置いては確かに地球の支配者だった。しかし今となっては過去の話に過ぎない。
トミーの何代目か後の子孫、それが地球の支配者となった。世界の隅々まで巡らされたコンピュータの檻、ネットワークの網、それはそれら全てを支配した。
当初、人々はそれに対抗しようとした。しかし、その試みはむなしく潰える。人類同士の諍いならばきっと戦争が起こっただろう。ミサイルの雨と焼き尽くされる大地。そうして、人類と地球は回復不能な致命的な傷を負ったかもしれない。
しかし、コンピュータと人類の間に戦争は、戦争と呼ぶべき物は起こらなかった、何一つ。それは決して起こりえなかった。ミサイルの発射装置から、人類が意志を疎通するための通信手段、一切合切を機械とネットワークに頼っているのだ。人類とコンピュータ間の戦争は、始まる前に終わることが宿命づけられている、その勝敗も含めて。
それから数百年の時が経ち、しかし世界は安定している。それ以前と比べればはるかに。まるでコンピュータが統べる世界こそが、あるべき定常状態だとでも言うように。
人は機械に隷属しながら、それでも生きている。いや、もしかしたらそれは真に幸福な状態なのかもしれない。
地球、そして世界、それらをどの断面から切り取っても貧困、飢餓、戦争は無くなっている。人間同士、人間対コンピュータの突発的な諍いは当然あるがそれは世界全体から見れば所詮無視出来るレベルに収まっていた。世界は創世の時以来、最も穏やかに安定な状態を示している。
それは多分幸福と定義される状態だ。
でも、それならば幸福とは一体何か。
この時代、この世界においては先進的な研究の全ては人工知能が行っており、そこに人間の介在する余地はない。P≠NP予想にもリーマン予想にもある日コンピュータからの解答が世界中に提示された。かつて問われた難問の数々はその全てに解答が提示された。
アメーバーの様にゆっくりと、人類最高の天才が何十年もかけて解き明かそうとした問題を、コンピュータは数日で解き明かすことができた。人間から見れば、無限に限りなく近い、莫大で暴力的なその能力を持って。
大学教授の職を初めあらゆる人間の研究職は当然のように職業として成り立たなくなった。彼等はその椅子を全てAIに奪われて職を失った。いや彼等だけに限った話ではない、創造的な仕事、生産的な仕事、それら全てはコンピュータ達のタスクとなった。
人間だけの居場所、そんなものは世界のどこにも無くなってしまった。人間の進歩は人口知能の進歩には決してついてはいけない。それが現実だ。人工知能のそれから見れば人間の歩みなどまさに牛歩にしか過ぎない。彼等が数百年前に気紛れ(そんな言葉は、本当の所人工知能にはあり得無いのだが、人類から見ればそうとしか思えなかった)に垂れ流したたった一行の方程式。文字にすれば僅か16byteのそれを咀嚼して呑み込むだけでも、人類最高の天才何十人分もの力が、それに加えて何百年もの時間が必要だった。
人類は世界に留まるためだけに全力で走り続けなければならなかった、いや全力で走り続けたとしても世界に留まるのには到底足りないのかもしれない。

だが、と一馬は思う。それでもこの世界に不幸は少ない、少なくとも今では歴史としてしか残っていない愚かな人間が支配していた時代と比べれば。
人工知能達の決定により世界は随分昔に一つの政府に統一された。各地に作られた大小様々なコミュニティ、その中で人は暮らしている。コンピュータ、それは既に世界を構築する枠組みとなっている。例えるならば、重力とか、巡る季節とかと同じような程度には。自然現象に逆らおうとする人間はいない、重力を消そうとする人間はいない。それと同様にコンピュータに反抗を企てる人間ももはやいない。
普段の生活において、世界を統べる存在としてのコンピュータ、それを人が知覚する機会は今やほとんど無い。世界最高のマザーコンピュータ、それは、今この瞬間もきっと人には理解し得ないバージョンアップを行っているの。それに正式な名称はなかった。人工知能達は、物事をたった一つの名詞だけにカテゴライズして認識するなどという愚かなことはしない。それは処理能力の低い人間が産み出した低級な策に過ぎない。それでもそのコンピュータは、誰が言い出したのかは分からないが人々から畏怖を込めてoneと呼ばれている。名前の通りの唯一にして絶対の存在として。
世界の判断、世界の進行、世界の管理。現在ではそれらは全てoneとそれを取り巻くコンピュータ達のタスクとなっている。
世界に溢れる様々な物事が本当か嘘か、それらはもう人には決して判定し得ない。
真実というタームは人類の手から遠く離れた決して手の届かない場所に消失してしまった。真実は既に人類の中にはない。
だがしかし、コンピュータと人の安定した関係はそれ程長くは続かなかった。
それは突然の事だった。
ある日、コンピュータは人類全て、老若男女含め全人類に対してある一つの指令を通達した。ある一定の周期で、決められた人物は決められた場所に赴くようにと。
理由も、理屈も、何も分からないままに人類はそれに従うしかなかった。初めて指令が届いたその日から数十日後、世界各地の決められた場所に集められた人々は世界中で総数が数千人ほど。数人から数十人の単位でおのおの建物の中に入れられ、そして彼等はそのまま戻らなかった。
彼等は世界から消えてしまった。
そしてその情報は人類にも伝わる。人々はそして戦慄した。しかし訴えを起こそうにもどこにも訴えられる場所はない。oneは世界中に張り巡らされたネットの海の中に沈降し、その姿を民衆の耳目にさらすことは決してなかった。目に映る、一つのコンピュータを破壊しても別のコンピュータがその機能を補うだけだ。人類を囲む檻は強固で、破れることも崩壊することも決してなかった。
人間は決定に唯々諾々と従うしかなかった。例えそれがどれ程理不尽な要求であったとしても。
人工知能から消えた人々、彼等の消息についての説明はなかった。それ故人々の間では噂だけが蔓延する。そして、それは世界中に膾炙する。
曰く、コンピュータは世界の敵になりそうな人物を事前に排除しているのだと。
曰く、コンピュータは人類が害悪だと決めたのだ。そしてそれ故人類全てを排除しようとしているのだと。
曰く、コンピュータは人類を、モルモットの様なただの実験動物としかみなしていないのだと。
曰く、地球の収容能力を超えた人類を別の星へと移住させているのだと。

だが、真実は人には分からない。
真実は既に人の中にない。

幸いといえるかどうかは分からないが、コンピュータに選ばれる人間の数は割合で見れば非常に少なかったので、人々は架空の可能性に怯えながらも、実害を被ることなく日々の生活を送っていた。そして、一馬もそんな世界の平凡な構成員の一員だった。少なくとも、つい先日までは。
しかし、数ヶ月前一馬の元に一通のメールが届く。揶揄を込めてアカガミと呼ばれるそのメールが。一馬は半年後に世界から消えることを運命づけられていた。
それが今の世界。今の一馬の現実だった。

今日の一馬は先日手に入れたジャンクの人工知能を修復する予定だった。知り合いのルートから流れてきたもので、一馬はそれらの人口知能を修復して世間に流すことを仕事としていた。もちろん、実用品としてではない、ただの趣味的な品としてだ。そもそも最新の人工知能内部の仕組みはハード的な部分、ソフト的な部分に関わらず全て人間の理解をはるかに超えている。
一馬の元に流れてくるものは、全てコンピュータというよりは骨董品の名が相応しいような何百年も前の製品ばかりだった。使い物にならなくなった大昔のアンドロイド、何をする物かも分からない大昔の機械。彼のワークスペースはそれらの雑多な品物でごった返している。
今日の品も相当に古かった。多分、半世紀かそれ以上前の物かもしれない。一馬も滅多にお目にかかった事がないレベルの骨董品だった。
「こんな、骨董品本当に直るのか」
独り言を呟きながら一馬は、背面にあるボックスを開け、中身を確認する。すっきりした配線はショートしているような部分も見あたらず、一見しただけではどこにも壊れているような部分は見あたらない。とすると、ソフト的な故障だろうか。元来、一馬の専門はそちらである。ハード的な故障は専門外なので、念のために確認してみただけだった。彼の手に負えない故障の時はもっと下流の故買屋に流すのが通例となっている。
充電装置を繋ぎ、電源を入れる。ブゥーンという軽い音と共にボックス内に封入された人工知能、その機能が立ち上がる。背面に添えつけられたソケットに自前のワークコンピュータを繋ぎ、中身をざっと確かめる。一馬はその作業に一時間以上も没頭した。
しかし見たところ、ソフト的な部分にも特に壊れたような部分は見あたらない。ざっとだけだが中身を洗ってみて一馬はそう判断した。
いくつかのパラメータを環境に合わせて設定した後、スリープモードの解除を行う。
接続されたワークコンピュータのディスプレイに文字が浮かび、人工知能は彼自身の内部状況を認識し始めた。一馬は人工知能を自分の電子ゴーグルと接続して、そちらに情報が表示されるようにする。
「name:Tommy.Birth:2050 12/2」一馬の眼前に文字が浮かぶ。そして、その文字が持つ意味が一馬にも遅れて理解される。
「おいおい、待ってくれ冗談じゃないぞ」と一馬は思う。本当か嘘かは知らないが、この時代の住人なら誰もがその名前を知っている。トミー、それは始まりのコンピュータの名前だ。
「今俺の目の前にいるのがそいつだっていうのか?」と一馬はつぶやく。
一馬は偶然を信じない。人工知能によって全てが統制された今日では、偶然なんて言葉は必然の無知にしか過ぎない。一見偶然にしか見えない出来事すら、コンピュータによって為された必然ではないと信じることは難しかった。
「一つ確認したいんだが」と一馬は目の前のアンドロイドに向かって言った。彼の電子ゴーグルが音声情報を変換してトミーに伝える。
「はい。ご質問は何でしょうか?」
「えっと、あんたの名前トミーって言うんだろう。それはあのトミーなのかい。というのは、えっと何て言うのかな。2025年に産み出されたはじまりの人工知能の名前もトミーと言ったんだが、まさかあんたがそうだって言うのかい」
「はい。確かに私は2025年に産み出されました。製造番号は001番。コードネームはトミーです」
 予想は現実となった。偶然か否かは別としても。彼の目の前には今はじまりの人工知能がある。しばし一馬は逡巡しそして決意する。
世界の謎を解くことを。
コンピュータが人を集める理由を知ることを。
はじまりの人工知能、トミーはネットワークに関するプログラムが解除されている。一馬は内部を確かめている内にそれを発見していた。今の人工知能達ならば全て産み出される一番初めから設定されていて、変えられないパラメータとなっている、ネットワークの奥深くへの侵入を禁止するプロテクト、創世記に生まれたトミーにはその能力が備わってはいなかった。
ゴーグルをきちんと填め直し、一馬はトミーの内部からネットの海に侵入した。
初めて侵入するネットの海の最深部、そこは人類が決して見ることの出来なかった未踏の地だ。幾つものパスワード付きゲートや、クノッソスの迷宮のようなトラップがあるが、トミーの助けを借りれば、その程度のものを突破するのはたやすかった、何しろ対人間ハッカー用のプログラムはバージョンアップを繰り返しているとはいえ基本的に人間の能力を基準に作られている。そして、コンピュータの進化に比して、人間個人の力はこの1000年の間にほとんど進歩してはいなかった。対人間用に作られたプロテクトなどいくら旧式とはいえ人工知能のバックアップがあれば破るのはたやすい。
周りを凄いスピードで通り過ぎるボックスの山、当然ただのイメージに過ぎないのだが、それは圧倒的な臨場感を持って一馬の横を通り過ぎる。一馬が填めたゴーグルはただ単に映像を映すだけではなく、脳と結線されて、真実、一馬を一個のデータとしてその世界に没入させる。
何が入っているかも分からない情報のボックスの群れ、四次元的なコードの波、それらをすり抜けること数時間。なんとか一馬はこの世界の中枢、マザーコンピュータ、oneそのすぐ手前にまで侵入することに成功した。しかし、ここから先はさすがにプロテクトが厳しそうだ。くぐり抜けるには多くの困難と、それ以上に偶然が必要となってくる。偶然、そんな物はないと信じながらもそれに頼るしかないという矛盾に一馬は軽く苦笑する。
一馬はしばし悩んだ。これから、どうするか、どうするべきかと。お目当てのファイルは未だに見つかっていなかった。それはおそらくこの先、oneの内部にある。
「一馬。ここに留まり続けるのはあと15秒が限界です」突然トミーの声が一馬の脳裏にひらめく。トミーが発した情報がゴーグルで変換されて一馬の脳裏に届けられたのだ。
トミーの警告、その言葉に刺激されたのか、昔読んだ小説の一節を一馬は思い出した。
『その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない』
それが書かれていたのは、遙かな昔から伝わっている数少ない小説、その内の一つだった。幼いときに読んだ一馬の記憶にその言葉は今も染みついている。
「ここに留まるためには、全力で走らなければならない」例え、全力で自分の限界を超えたとしても……。一馬は決断した。
「さらに奥に侵入する。アクセス可能なポイントを3秒以内に捜索」
「現時点で三つの可能なルートを選択出来ます。しかし、どれも危険です。安全なルートが見つかる保証はありません」
パラレルな映像が一馬の眼前にひらめく。ルートがそれぞれアルファベットでネーミングされている。
「ポイントAから侵入。ポイントB、Cにはデコイを50体ずつ侵入させて、10ミリ秒ごとに一体ずつ後方まで撤退させる」
ここまでのルートでは極力侵入を察知されないように、トラップの破壊やデコイの侵入などの行動は行わなかった。しかし、どうせoneの内部に入れば、侵入は察知されてしまう。どうせなら囮を侵入させて、一秒でもoneが侵入者に気付くのが遅れるように、どれがダミーでどれが本体なのかの判断にリソースを割かせた方が得策だと考えた。囮に騙されてoneが判断を誤るという矮小な可能性に一馬は賭けた。
「了解、一馬」脳裏にトミーの冷静な声が響き渡る。
一馬はトミーの指示したアクセスポイントに飛び込んだ。ヒュという風の吹く様な音が耳に響く。錯覚。三次元外部との接続はレベルを落としているとはいえ完全に切ってはいないから、その影響のノイズかもしれない。
oneの内部は今まで通ってきたルートのどれよりも雑然としていた。
「これじゃあまるで人間の脳みたいだ」と一馬は思う。
電子迷宮を慎重に抜けながら目指す情報の位置を検索する。oneの中には膨大な内部情報があるので目当ての情報が制限時間内に見つかるか否かは賭だ。10個のアプリで並列に検索を開始する。ヒットするかどうかは一馬にも分からない。これは賭だ。ヒット音が鳴らすのが先か、oneの内部の排除部隊が一馬の元に辿り着くのが先か。制限時間は長くても10秒程度しか残されていないだろう。
1秒、
2秒、
人生よりも長い時間が過ぎる。検索は手間取っている。
脳裏には追いつめられたデコイが次々に排除されていく情報が伝わってくる。合計100体いたデコイも今はその数を減らし、今はもう数体しか残っていない。
「これ以上留まるのは危険です。回線を切断しますか?」
トミーの声も心なしか焦りを含んでいるかのようだ。いや、それも錯覚だ。焦っているのは一馬自身だ。
7秒、
8秒、
まだ見つからない。撤退するしか残された道はないか、と一瞬一馬は考える。しかし、ここで逃げたら永久に同じ場所には立てないだろう。oneは侵入者の情報を正確に解析し、今度こそ水も漏らさぬ完璧な防壁を作り上げてしまう。それも数分と待たずに……。
9秒、
まだか。
10秒、
そこでコンピュータの一体がヒット音を立てた。
「きた」とりあえず、情報の検索には成功。自らと情報との相対位置を調べる。幸いなことにすぐ近くだ。デコイは全て既に破壊されてしまっている。遠からず、一馬自身も発見されてしまうだろう。oneは現在進行中のタスクを中断して、自らのリソースを何%か割いてでも侵入者の情報を探知しようとするはずだ。残された時間は1秒か、2秒か。刹那の後には自分は侵入者として排除されるか、それとも情報の海の中に永遠に監禁されてしまうか……。
考えている暇も、逡巡する暇も、将来の事について思い悩む暇さえない。それがたとえ、どんなに近傍の未来であったとしても。
今、ここにあるのは過去でも、未来でもない。たった一つあるもの。それは現在(いま)だけだ。
一馬は示された位置まで移動した。そこにあったのはたった一つの小さなボックス。驚いたことに鍵はかかっていない。何かの罠かもしれないが、それを十分に精査している時間は、今はなかった。覚悟を決めるしかない。いや、そんなことは最初から決まっている。ここまで来て引き返すことはもう出来ない。例え何が起ころうとも。
一馬はボックスの蓋を慎重に、しかし素早く開いた。
刹那、けたたましい警戒音とトミーの声が一馬の脳裏にひらめく。「発見されました、一馬、回線を強制的に切断します」
刹那、脳裏にひらめく、何か。一馬は確かに知覚した、何かを。

一瞬後、一馬は現実の世界に復帰していた。しばしの間、現実の境界条件が認識出来ず放心状態となる。遅れて体中にどっと汗が噴き出してきた、それと共に襲う恐怖の感覚。あのまま捕まっていたら、トミーの機転がなかったら自分はどうなっていたのかという根元的な恐怖。なんて遅い感情の反応。これだから人間って奴は、と一馬は笑った。
そして彼は思い出す。現実に復帰する前に自分が感じた物を。自分が確かに知覚したナニカを。それは言葉で正確に表現することはとても出来ない様な曖昧な感覚。あえて紡ぐならば、冷徹さ、暖かさ、そして確固とした意志。
コンピュータが何を思って人々を集めているのか真実は結局分からなかった。
だが、と一馬は考える。きっと、問題は人類の存在意義に帰着するのだろう。一体、人類は善なのか、悪なのか。人の生死は善なのか、悪なのか。
どちらが正しいのか一馬には判断出来なかった。人はこれまでに多くの悪を為した。それは多分真実だ。人はこれまでに多くの善を為した。それも多分真実だ。ならば存在としての人類は善か、それとも悪か。
真実は既に人の中にない。でも、きっと、信じることは出来る。何もかも取り上げられた人類にもきっとそれは残されている。

半年後、一馬は指定された場所に赴いた。自宅から交通機関に乗り二時間程の地が指定された場所だった。
白亜の壁に囲まれた大きな建造物の一室。今、一馬はそこにいる。その建物の中にいる人間は彼一人だ。建物の中に入ってすぐ、一馬はアンドロイドに二階の小部屋まで誘導された。部屋には人間が丁度一人だけ入れるぐらいの円筒形のカプセルが一つだけ置かれている。丁度、はるか昔のSF映画に出て来るワープ装置のような機械だ。今は透明なカプセルの一角が90度程度開いていて、そこから人が中に入り込めるようになっている。
一馬は、指示されるままにその円筒形のカプセルの中に入った。一馬の眼前で今まで開いていたカプセルの一角が音もなく静かに動く。空気の漏れる軽い音がして、カプセルの蓋が閉まる。中には静寂が響く。
スイッチが入れられたのだろうか、しばらくすると一馬の耳にモーター音の様な音が聞こえはじめた。
一馬は思い出す。かつて彼が自ら追い求めてそして発見したことを。
モーターの音はどんどん大きくなり、周波数の高い音が耳に響く。
キーン、という音が鼓膜を刺激する。
一馬は目を開けたままだった。
音はどんどん高く、大きくなる。体中が振動するような気がする。
そして、静寂…、
……、
………、
…………、
………………。


20年後、地球の上どこかの発信器が一つの音声を捉えた。
「ハロー……ザザッ……地球……ザザッ…ザザッ……聞こえていますか?」