今更ですが、デスノート本編、映画に関して結末のネタをわっています。

大丈夫だよという方だけ、続きへ


まずは前提。メディアとしての小説は漫画やアニメに劣っています。この差はいかんとも埋めがたい。
はいはい、何を言ってるんだこいつはという感じなのでもう少し詳しく説明します。
まず小説というメディアの構成要素は文章のみです(ややこしくなるのでラノベは除外)。
漫画というメディアには文章に加え絵があります。
さらにアニメには文章+絵+音があります。
つまりアニメ⊃漫画⊃小説な訳です。小説が一次元だとしたら、アニメは三次元な訳です。構成要素が少ないが故に小説の限界は漫画やアニメよりは低くならざるを得ない。
まあ正直色々と穴のある理論なので反論カムヒアーなんですが、とりあえずここまでは前提。



さて、じゃあタイトルの小説の優位性というのはどこにあるのか。私はこれを同時性のなさだと考えています。
説明のために、デスノートをあげましょう。
デスノートの連載中、ネットでは毎週ごとにその後の展開について多くの議論が交わされました。これは同時性の為せる技です。つまり、毎週多くの読者が同じ物語を読んでいるために、それを土台とした議論が可能だった。デスノートが人気を博したのは(少なくともネット上での理由には)この要素が少なからず影響を与えていると思います。というかデスノートはこの同時性を最も上手く利用した漫画作品であったとすら思います。展開についての議論をさせる事が前提で常にその予想の斜め上をいく展開をなした。
さて、その結果として何が起こったでしょうか。皆さんご存じのあの残念な二部ですね。読者の予想から逃げて、逃げ続けてLを殺してしまった事で結局は袋小路に追いつめられてしまった。
デスノートの一部ラストには様々な推論がありました。その中でも良く出来ていたのは、映画版ラストの展開と、南空ナオミ妊娠説だと思います。正直ね、この二つとも作者の頭の中にはあったと思うんですよ。でも、既に予想されていた展開だったため使えなかった※1。物語としての完成度を落としてでも、読者の予想を裏切る方向にしか進めなかった。

これが同時性の罠です。定式化すると作者VS(読者×数)。例え天才だったとしても作者一人の頭脳と読者数万人の頭脳なら、作者は敵わないのですよ※2。アニメに至ってはさらに顕著です。何故なら最初から話数が決まっているのでさらに予想がたやすくなってしまう。

タイトルにある小説の優位性というものは、上記の同時性の無さ。ここにこそあると思います。
ミステリーを読んでいる途中で感想を検索する読者はいません(多分そんなにいないはず)、連載小説もありますがはっきり言って毎週毎週それ程活発な議論が交わされている事は少ないです。
それ故小説は(作者VS読者)×読者数という定式上で議論する事が可能な訳です。

まあ言いたい事はこれだけで相変わらずおちは無いんですが。一言。これから電子媒体での小説が増えると思うけど、連載形式にはすんなよ、絶対だぞ!!
異常終了。お粗末様でした。



※1 これは物語の着地点として月の死が規定事項だったせいもある。
※2 厳密には発想の飛躍という点では作者の方が上だが、あまりにも荒唐無稽なものだと批判される。そのためある程度の伏線を張らざるを得ないというせいもある。